白夜

せかいがいちばんただしいとおもう生き方

a line

僕の知らない、寄る辺を失う死に寄せて

 


一昨日twitterにて、自殺動画を生放送したひとりの少女を知った。

その動画は勿論元のサイトから消されていたけれど、誰か烏合の衆のひとりがtwitterに載せていた、のでわたしはそれを見た。少女が駅のホームから線路へ飛び込むまでの三十秒程度。在った命が消える、その三十秒。
この件に関して色々考えた。
以下この件の話を続けるため、自衛をよろしく。すべてわたしの勝手の想像であるため、批判はやめてくれ。



すべてtwitterにて知った情報であり、真偽のほどは確かではない。なので何とも言いがたい話ではあるが、書き留めておく。

高校一年生の女の子。
7月1日の夜、線路に飛び込んではねられ、そのまま死亡。

twitterやインスタグラムを覗いてみたけれど、色々悩んでたんだなあ、と伺えた。死人にくちなし、さらにネット上のことなのでどこまで本当かわからないけれど、援交相手に妊娠させられ、中絶を二度している、とのことや恋人と音信不通とか、親からの暴力に日常的にさらされていた、とか。
アカウントはどちらも削除されていた。

ちなみに、可愛い女の子だったと思う。本人は容姿を気にする発言もしていたけれど、絶対に可愛い方だった。華奢な手足とか、ピンクが似合うところとか、しゃべり方とか、近くにいたら好きになると思った。

ライブ配信アプリで直前、『誰も助けてくれない』『話し相手がいない』『好きだったひとが三つ編みを好きといったから三つ編みをしてる』などと吐露していたらしい。

以下、動画に関して。

足元を映す画面、駅のホームであることが伺える。数十秒して端末が倒れてしまい、それを直して、女の子はただまっすぐに線路へ飛び降りた。あまりにも綺麗な飛び降りだった。ためらいなどないような真っ直ぐな足どりで、ふわって服や髪、腕が舞って、現れた電車と入れ替わるように姿を消した。言ってはいけないだろうが、まるで映画のワンシーンのような、作り物のような飛び降りだった。
ブレーキ音が、鳴っている。

 

重ね合わせるのはおかしな話だけれど、16歳って、すごく多感な時期だと思う。もう5年前になるのだけれど、わたしが21年間生きてきて一番つらくかなしかったのは16歳のときだった。
頼るあてもなにもなく、まるで世界に自分ひとりのようで、朝も夜もぐちゃぐちゃで、しばらく学校には通えなかった。

今回わたしがこの件を調べよう、書こうと思ったのは、わたしも彼女と同じようにブロン錠をODしていた時期があるからだ。同じ、16歳の頃。たしかひと瓶を2日で干した。

たかだかそのくらいで死ねるわけないのはわかっている、けれどなにかせずにいられなかった。なにかして、苦しさを見えるかたちにしなければと必死だった。
抗い続けたかたちは、いまだこのからだのいろんなところに残っている。

閑話休題

この自殺配信には賛否両論あるだろう、いや、否しかないかもしれない。彼女の死後、彼女のアカウントへのリプライには彼女の死を悼むものもいたし、揶揄する底辺の人間もいた。たしかに、誰もが見れる場所でひとの死ぬ瞬間を流すのはおかしいだろう。でもきっと、彼女は画面越しでもいいから誰かに肯定されたかったのではなかろうか。

わたしも同じ16歳の頃、かなしいままくるしいままに同じアプリを使い配信していた。ODで意識飛んだままの配信の記憶はほとんど残っていない。それを見ていたという憎むべき友人には、いますぐやめろとDMを飛ばされた。

生きることが苦しいとき、差し出された手さえ煩わしく感じることがある。差し込む光さえ拒絶して、暗い方へと逃げ込むことがある。自分のすべてが害悪で、そして周囲もすべて自分に害する存在で、どうしようもなくなったときの逃げ場が死だった。
すべてからの解放はそこにしかないと、まるで視野が狭くなり、もう真っ暗になってしまうのだ。
勇気のないわたしは結局のうのうと生きてしまっているけれど。

彼女は強く生きた。
強く生きて、そのはてにあったのがこの結果なら、もう誰にも否定はできないんじゃなかろうか。どれだけ周りが悲しいと嘆いても彼女の人生にはひとかけらも影響しないし、彼女は自分のいのちを最後まで全うしたんだと、そう思う。死を選ばせるのは周囲であり、けれど最後の最後に選ぶのは自分だから。

もう、なにも言わないほうがいいと思う。
彼女ももうなにも言えないのだから。

どうか彼女に安らかな眠りが訪れますよう。
もう泣かなくて済みますように。

 


残りはライブ配信について。

逆に今の時代、誰もがツールで発信できる時代、こうしたことが多くないのが、奇跡だったんじゃなかろうか。
いつ誰が自殺配信をしてもおかしくなかった。現に、死にたいとSNSで呟く人間を狙った殺人事件も起きてしまった。彼女ひとりを糾弾することなど誰ができるのだろう。

彼女のtwitterもインスタグラムも消え、かろうじて烏合の衆どもが残したものがネットに垂れ流しにあっている。どれが本当かもどれが本心かもわからず、そして他人の言葉で彼女という存在が残されている。

わたしはtwitterをはじめて6年ほどになるし、ブログをはじめて8年ほどになる。けれどもうすぐ21になるという今、あまりネットやSNSを好まなくなってきた。
どうせ本心などないくせに誰もが関心あるふりをして寄ってくる。簡単な言葉に裏切られる。そのくせやめられないのが恐ろしいところだ。
いちばん大事なことは、SNSを居場所にしないことだと、そう思っている。顔をあわせて、はじめてすべて通じると思うから。

正しさなど知らない、彼女の死に正しいも間違いも存在しない。けれど彼女の苦しんだ形跡をほんのひとかけらでも知ったわたしたちは、あらためて生に触れるのだと思う。誰かのための死ではなく、彼女自身のための死は何者も損ねない。あの数秒に至るまでにどれだけ苦しんだかを想像すれば、誰が彼女を責められるのだ。

あの一線を越えられるのは、強い人間だけだとわたしは思う。

 

彼女の冥福を祈って。