白夜

せかいがいちばんただしいとおもう生き方

beautiful days

 あしたになれば、ぜんぶうまれかわるから

 ※泥酔で書いてます、PCで書いてます、読みづらい  社会人になって1か月が経ちました  まだまだ研修中の身です、いまはzoomでリモート研修中です。一応使用期間はほぼ研修なのだけれど、必死に今後必要となる知識を習得している最中です。ちなみにこの記事は研修で初めて知ったサクラエディタで書いていたりする。でも実際一文がやけに長く表記されるので使いづらかったりする。  さて、わたしが本職に選んだのがどういう分野かおわかりいただけただろうか──これ言ってみたかった──そう、システムエンジニアである。いやいや慧ちゃんまじふざけんなよって感じでここからはいつも通り進めていくんですけど。ぼんやりさ、慧ってどっから生まれたのって、そういやはてなブログで書いてないなあって思ったから改めて書いていこうと思います。ちなみにこれ自家製ハイボール(度数高め)を飲みながら書いてるので、もしかしたらほんとうに日本語死んでるので、そうしたらしれっと訂正しておきます。でもここまでしないとブログなんて書けないんだよ。

 さんざん、きっとフォレストブログの頃から言ってる。  わたし、クラシックピアノをずっと、ずうっとやってきたの。  捨てたくて、捨てられなくて、まるで死骸を抱きしめるように続けてきたクラシックピアノ。いっそ今なら垢BANもされないから言っておくけど、奢りなく、国内で随一の音楽大学へ通っていたの。私立だし自由だし、一般にはそう有名にならなかった大学かもしれないけど、クラシック音楽を嗜んだのなら知っててほしいくらいの大学へ通っていたの。学費は全国1位かなくらいのところへ通っていたの。ほんとうだよ、学歴さえ言えば幸福な人生を手に入れていたの。それだけで生きていけたらいいってくらい、学歴に自信を持っていたんだよ、日コン第一位をよく輩出するくらいの大学なの。馬鹿みたいでしょう。  そんな大学で4年学んでも、わたしは何にもなれなかった。ピアニストになんてなれなかった。特別な人間なんかじゃなくて、奇跡的にちょっとピアノが弾けただけの普通の人間なの。いや、半分よりは上だったのかもしれない、先生からもあと少しで卒業演奏会に出られたねって言われた。でも、上の下程度の人間なの。何か興味のないことを教えるのは嫌いだから学校の先生やピアノの先生にはなれないの。それなら、ピアノが弾けたって、何にもなれなかった。卒業してしまえば、ピアノが弾けたことなんて何にもならなかった。親が借金までして何百万と払ったものには見合えなかった。  正直、生きててごめんなさいってなった。  何度と手首を切って、首を絞めて、足首を腿を切って、叶わないと知りつつ死のうとした。  それさえ先駆者への冒涜と知らずに繰り返した。  死ねば救われると思った。そう思わせてくれた彼女については、改めていつか残したいと思っているけれど、それを除いてすら、全て終えられると信じての行為だった、誰も下さない自罰の行いだった。兄を責めたときの自罰には足首を切った、友への自罰へは手首を切った、両親からの説教の最中首を絞めた。痛い、苦しい、でもそれ自分は許される気がした。許される気がした。いや、許されなくてもよかった、ただ自分が駄目なことをしたという証、自罰の欲しさに残した切り傷だ。

 きっと、自分は誰からも責められていなかった。  22歳になって、社会というものを少しは味わったからこそ、そう思う。  激怒し私を非難した父母は、私の未来を信じていたのだ。  何も知らないふりをして、ふと気づいたように切り傷の所以を尋ねた兄は、私の未来を描いていた。  誰も、私を責めてはいなかった。  ただ私を正しく、真っすぐに歩けるようにとしてくれていたのだ。  いまだから、いまじゃないと、きっとわからなかった。それさえ。きっと、両親と兄の愛情に違いなかったのだ。まるで美談みたいだろう、それでも私の親族は美談であふれていたのだから仕方ない。  美談でないものならいくらだって言える。叔母が、母へ危害を加えている。祖母が亡くなり、誰も母と叔母とを仲裁するひとがなくなり、それぞれの言い分で争っている。正当は判断できない私でさえ母が正しいとしか思えない。そもそもなぜ祖母の残したものを姉妹で争わなければいけないのかさえ、幼いわたしにはわかっていない。祖母は生前、ただ姉妹が争うことのないようにと願っていたからだ。

 ……本筋って何だったけ

 "慧"がどう生まれたのか、だっけ。  いや、上記のことなんて関係なく、ただインターネットに興味を持った、いち十四歳程度の女子中学生がイキるようにブログをはじめただけです。  最初は何を書こうなんて決めていなかった。ただ当時好きだったもの、大切なもの、つまり嵐について書きはじめただけだった。  きっと最初は自己満足だった。  少しオシャレなフォレストブログのブロガーさんがいて、元々フォレストページでHPを持っていて、だからブログをはじめた。でもそのおかげで、たくさんのひとに出会えた。いまでも繋がってるあなたたちが、私にとってはひとしく大切なひとたち。たとえフォレストブログがなくなって、ヤプログがなくなって、ばらばらになったてそうだった。愛するものを同じように愛する大切な人たちだった。愛する対象が変わったって、同じように愛した大切な人たちだった。いまだって、みんなの名前を忘れてなんかいないよ。

 慧って名前は、ほんとうは創作のサイトで使っていたHNで。  それからちょっといろいろあって創作HNは藤咲に変えて。  下の名前欲しさに、大好きだったひとの名前を借りてたけどしっくりこなくて、本名からもじってようやくHNが定まって、それから大切なひとたちには"あきちゃん"って呼んでもらえるようになって。

 正しさなんてきっとひとつもなかったけど、それでもすべてかけがえのないものだった。  ひとつすら逃したって、いまのわたしにはならなかった。

 慧も、藤咲瑛も、自分ひとりでは出来上がらなかった。  わたしひとりでは、成立しなかった。

 だからきっと、わたしって存在は関わったすべてのあなた方のおかげで生きているんだって思う。

 たとえ一緒に追っていたあらしさんってものが共通でなくなっても、それから追ったすべてが一時的なものだとしても、触れあってくれたあなた方を忘れることは決してない。酔いながら、泥酔しながら、泣きながら書いてはいるけれど、それだけは何よりの真実だよ。    

 はじめたのは、たしか14歳くらいのときだよね  いまわたしはもう22歳になってしまったね  でも培ったすべてがわたしを支えてくれているから、  何も恐れることはないんだよ

 わたしと一緒に死のうと言ってくれた羽も、  愛しいからこそ傷つけたくなくて縁を切ってしまった織も、  いまだって愛しいと思う彼女も、  かけがえなく、いま私を作るひとたちだから。    あなたたちが幸せでありますように  愛してくれたやぷみさんたちが幸せでありますように  藤咲瑛を知ってくれた方が幸せでありますように  この記事を読んでくれたすべての方々へ愛を込めて

 幸福という日々に愛を告げて、世界へおやすみなさい